成りすましについて(簡易メモ

成り済まし。
卒業する事の一つに挙げられております。
さて、大日月地神示後巻内でも成り済ましの文がいくつもあります。

では「成り済まし」とは何なのかというのを少々ピックアップしてみたいと思います。
・分かる振りでは、成り済まし、「嘘つき」ぞ。
(分からん者は、いつまで経ってもあっちにふらりそっちにふらりの「放浪癖」ぞ。
腹決めて学ばねば、「口ばかりの頭でっかち」じゃな。
生き方実らぬ、あてのない根無し草となりますぞ。)
・善に成りすまし「口ばかり」良きよう申して、「行い伴わぬ御魂」魔物に操られておると思いなされ。(嘘つきは魔物の容れ物に好かれる)
・外国御魂に成りすましておいで
・頭でっかちの成りすましは恥ずかしいのであるぞ。
(仮面被りて嘘ぶれば、己でない者成りすまし歩く道に等しいぞ。)
・靈も成りすまし多いぞ。神、仏、天使じゃと申して現れるものは、九分九厘ペテンであるぞ。
・己の中に成りすまして、出入りする魔に勝つこと

「分かる振り」は恐らく九分九厘の人たちが行っているでしょう。
その様な社会仕組みであるとも言えますが・・・。
分かる振りをやめると分からないということを堂々と相手に伝えることになります。
(人の知識では分かっている事の方が少ないのですが・・・本質は靈人なので)
正直正直に生きれば、それなりの反応が相手から出て来ます。
しかしながら全ては記録され、全て見られていると思えば考え方は変わるでしょう。

念言行一致を目指すことが一つのポイントであるのは間違いないかと思っています。

悪、抱き参らせとは

gettr.com

新たな神示が降ろされております。
さて今回、悪の御役について書かれております。
ひふみ神示でもこの悪を抱くということは色々と書いてあります。

未熟というキーワードが多く出ております。
表面だけしか見れぬ者は、浅はかな未熟な物である。
悪は居らぬ、善のみじゃ。ときれいごと申す者。
悪魔、皆の未熟さ見抜き、騙してくださったのじゃ。

・真、分かっておる者のように成りすまし
・知ったかぶり
・鼻高(我が我がの鼻高)
・受け売り上手
これらは卒業しましょうと今回の神示に書かれております。

この4つ本当に厄介な癖になっているかもしれません。
正直者が莫迦を見る世は終わりであるから、正直に生きなされよ。(神世の仕組みより)
この正直者というのが、
上記の事を卒業する一つの鍵ではないかと思っております。
(さらに八方美人とかこの辺も絡んでくるかと思います。)

癖について(簡易メモ

新たな神示が降ろされております。

神人-kamihito-/日本 on GETTR: 【神人靈媒日記 2022.1.14】 〜続 大日月地神示/神世の仕組み①〜 世のため人のためと申し、私利私欲満たす者、善の仮面被りた悪と申すのぞ。九分九厘は善の悪であるぞ。己の欲、どこからのものじゃ。よくよく問うてみなされ。靈性とは、欲の質、問われることぞ。己と思い込み、悪しき靈のしもべと化して、心に同居しておる者、多いぞ。靈媒ばかりと違うのでありますぞ。思考、感情の出所知らねば、操り人形じゃなぁ。新たな世に生きるには、己を知らねばならんぞ。正しき教えに寄り添えよ。ここぞと見たら、心して学びなされ。ふらりふらりは根無草。風に吹かれ飛んでゆく風船じゃなぁ。それでは信用得られんぞ。どこに行っても淋しき者となるのぞ。みなみな己の在り方、顕れておるのじゃ。他、悪く申すでないぞ。己の癖からぞ。長年の癖、顧みよ。正せよ。ひねくれて、自暴自棄になるのは、ただの幼児性じゃ。未熟ゆえぞ。赤子心となるは、意味取り違えるでないぞ。悪しき癖、放ったらかしは毒と化すぞ。心も体もみな、癖から病むのじゃ。故に顧みよと申すのぞ。悪自由は病の元ぞ。植え付けられた癖、手放すが人民の修行じゃ。苦しいぞ。辛いのぞ。それは思い込みじゃ。嬉しいのぞ。ようやく終わる故、喜びでありますぞ。己に言い聞かせなされ。うれしうれしたのしたのしありがたいありがたいと、何度でも申して、癖、手放せよ。楽になるぞ。どんどん変わるのじゃ。

 

④までありますので是非神人さんのGETTERから確認されると良いかと思います。

霊性とは、欲の質、問われることぞ。
ということで、
この欲の質は途轍もなく重要であるのは間違いありません。

今回は「癖」。
簡単に大日月地神示後巻より文章をピックアップしてみると。
・分からん者は、いつまで経ってもあっちにふらりそっちにふらりの「放浪癖」ぞ。
・悪食、癖にいたすでないぞ。
毒喰らう癖、悪魔らにしつけられて、喜んで病になっておりますぞ。
食べ物、己に見合う物頂くが真でありますぞ。
・御魂相応、
・身体相応、
・時期相応、
・土地相応じゃ。
食い過ぎる出ないぞ。病の元であるのぞ。
毒食えば苦しくなってまいりますぞ。
少量じゃと申しても、
毒は少しでも毒ぞ。
薬となる毒とならぬ毒とありますのじゃ。
毒と薬は異なりますぞ。
私見的に言えば、この辺は色々と多面的に捉えることが出来るかと思います。
食い過ぎるは、過ぎる事悪自由とも書かれておりますし(後巻二十七に書かれております。
今の薬(特に西洋薬)は薬なのか?(某ワクワクをみればわかるかと思いますが)
さらに言えば、続大日月地神示の言靈にも面白いことが書かれております。
毒、作り使うでないぞ。毒、薬と申すは、使い方理解出来ておるお方だけぞ。万民には毒であるぞ。))
・苦しむ癖
・自滅に追い込む癖
・迷いは癖からぞ。恐れは過去の染みぞ。能書き申すは知識の埃じゃ。
・怒りに慣れると他を悪者にいたし、不和広げること、
己を正当化する癖、ますます大きくなるのじゃぞ。

簡易的にですがまとめてみました。

感情について(簡易メモ

・感情とは「感覚」に加えそれに関する「思考」が合わさったもの。
・感情はとても明確なフィードバックとなる。
・感情は健康に影響する
・感情や感覚とは、その出来事に対する「あなたの解釈にもとづいた反応である。」
(出来事や体験に対する「自身の尺度」に気づかせる、鏡のような役割)

外側で起きているように見えるすべての出来事に対する反応は「自身の創造」によるもの。
あなた個人の反応、あなたの投影や解釈の結果、究極的にはあなたが創造者、
人生における出来事をどのように「認識」するかは個人の創造。

感覚とは、
・肉体と内なる精妙な世界で体験される感覚刺激の事。
そのものの真の姿は、「肯定的」でも「否定的」でもない
あくまでも中立的な報告にすぎない。
・エネルギー的な反応や適応の世界で起こっている事の一種のバロメーターである。
・感覚は極めて明確なバロメーターとなる。

意識の精妙なる領域からのインパルスは
「感性」をとおして感受され、
その後はじめて
「思考」や「言語」に置き換えられる。

感性から感覚へ、感性そのものは感情体に起因している。
感性の情報は、
・体の神経系
・精妙なエネルギー諸体に受け取られる

これらの感性(体の神経系/精妙なエネルギー諸体に受け取られる情報)が「感覚」として「翻訳」される。

非言語的なエネルギー体験で感じたものを
・思考や
・言語
を使かって選別する。(自分が感じていることを表現できる事実、ラベル付け作業)

かなり難しいですが、
簡易的にまとめてみました。
神示を見る上でも面白い視点かと思います。

今日のひと言「選択」を読んで思う事

https://www.facebook.com/groups/kamihito1111/posts/4575370735913131/
今回getterではなくfacebookの方で投稿されておりました。

さて、今回因果について分かりやすく書かれておられます。
そこで、
「カルマ」も似たような意味の言葉であるようです。

カルマとは
・単に自分の思考と行為の結果を体験するということ。
(思う前に思考が与えられます。)
・反作用の法則

当然この
思考に対して個々人は色々とポジティブにもネガティブにも「選ぶことができます。」
そこの思うことに対しては、
個人個人が選ぶことが出来る訳です。
どんな出来事に対しても思いは千差万別でしょう。

自分の思いや感情パターンを変えることで人生を変えることが出来る。
あらゆる行為には、
・反応や帰結がある。
・自分の行為にはかならずその結果や影響が生じる
カルマの結果や影響は、それが
思いやりや愛から生まれた行為の結実であれば「ポジティブなものとなる!」

今回はカルマについて少々記してみました。

感情について(私見(仮))

言葉は皆さんそれぞれ「受け取り方が違います。」
何と言われても事実です。
そもそも、その言葉を「勘違いしている。」なんてことも普通であります・・・。

今回は感情。
私見でありますので、神示からだけではございません。

感情は感覚と思考(感情=感覚+思考)
となるようです。

感覚は肉体体験される感覚刺激の事(物質的な感覚も、内なる精妙な世界での感覚の両方)
またこの感覚は肯定的でもなく、否定的でもない、バロメーターである。
そこにあるのはそのまま感じられる事柄といえるでしょうか。
(パソコンのデータを考えてもいいかもしれません。その数値に意味を付加すると言っていいかもしれません。ある意味面白い仕組みではあります。)


思考については、
「思う」前に、「思考」が与えられ、「選ぶ」という段階にあります。
「思考源は各種放送局からであり、脳はテレビと同じ送受信機である」
(思考は予め用意されており、己は思考を選択するのみである)

そう、「思う」(思う≒感情に近いでしょうか)というのはどうにでも個人で変えることができるといえます。
その事柄をどのように解釈するかは「個人個人異なります」。
(感という意味を見ると、物事に接して生じる心のはたらき)
(情という意味を見ると、物事を感じて起こる心のはたらき)
感は生じる、情は働きです。
言葉というのは面白いです、感が先にあり、情は後となります。
感が生じたものであり(感覚)、情はそれそのものを「感じて起こる働き」(思考)とも言えます。
当然感覚はバロメータです、それをどのように解釈するは当然個人個人異なります。
こうしてみると大日月地神示がもっと面白く見れるかもしれません。
(概念的な事柄になりますので、難しいかもしれません。)

今日のひと言~歩き方~を見て

gettr.com

これを読んで(音読)していて、
大日月地神示後巻四十二が浮かびました。

「愛すること学ぶが真の道ぞ。道いくらでもあるが、喜び多き道選びなされよ。愛される喜び深いぞ。尊いのぞ。愛されるには愛すること出来ねばならんのう。相手の痛み分からねば心通じ合えんぞ。目見て話しなされよ。目は心のすべてを映す鏡じゃぞ。騙されるには騙される因果あるのぞ。思い込みの顕れでありますぞ。道は広くなったり、細くなったり、明るくなったり暗くなったり、荒れてみたり綺麗になったり、上にも下にも右にも左にも、どうにでもなるのが御魂の道ぞ。心一つでいかようにも変わるのでありますぞ。ゆえに心の景色は日々変わりますのじゃ。道に迷ったら、立ち止まって考えてみれば良いのぞ。他にも道があるゆえ、己にとって真喜びとなる道見極め、途中変えて良いのであるから、焦らんで良いのぞ。慌てると転んで怪我もするぞ。病も教えであるのぞ。ひとりぼっちになって淋しくもなるのであるから、二人で歩く道、三人で歩く道、皆と共にゆっくり歩く時も必要であること知るのであるぞ。

同じでねばならんと思い込むから、心苦しくなるものぞ。道に決まりは無いのぞ。喜びの違いあるだけじゃ。周りよく見渡してみなされ。楽しみながらゆっくり歩くが丁度良いぞ。競えば苦しくなるもの。何ゆえ己を見せつけたいのか。何を認められたいのか。淋しいからじゃなあ。相手と共に励まし合いながら進む道は、喜び合いながら、皆と共に変われる道、あるのぞ。心一つで、行く道、歩く歩幅、景色、仲間も、皆々変わりますのじゃ。素直になりなされ。素直に求めてみなされよ。身の丈に見合った歩き方、良いなあ。仮面被りて嘘ぶれば、己でない者成りすまし歩く道に等しいぞ。そなたに見合ったそなたの道、進む道順、己の歩幅ありますぞ。縁ある者は自ずと側に寄り添ってきますのじゃ。淋しさは己から外れて無理しておるからぞ。無理せんで良い良い。そなたはそなたで良い良い。皆々、真の自分の姿が愛おしいのぞ。真の自分を愛しなされよ。真の自分を認める学びじゃな。

 うれしうれしたのしたのしあらわるる、ひふみの道、笑顔笑顔になりますぞ。

 あーわーやーらーわーー。おーおーおーおーおー。えみためえみため。かわるかわるみなかわる。」うーるーうーおー。

 神人、あっぱれいよいよ変わりますぞ。神人、真の姿に戻りますぞ。」

多少この歩き方について理解が深まるのではないかなと思っております。